猫の名はちょいと。

猫と映画好きが綴る、ささやかな日常

変わることを受け入れた女たち

同級生でギャルだった子が、マラソン好きの彼氏と付きあいだして約4年。

SNSで近況を見ていると、付き合った当初からマラソンをはじめて、走る距離がどんどん延びていくのがわかる。

最近では山道を走るトレランの大会に出ているようだけど、両足の爪がはがれたりとかなり過酷なようだ。でも写真の彼女はいつも幸せそうに笑っている。

 

別の友達は、高校の同級生と結婚した。

学生時代から派手な喧嘩をしたり、イチャイチャしたりと高校生らしい恋愛をしていた2人。

今は子供も手がかからない歳になり、休日は2人でパチンコ屋にいるらしい。

「みんな引くと思うけどー…」と前置きして、「旦那はあんまり趣味がなくて1人でもパチンコに行くけど、一緒にいくと共通の話題ができて、もっと仲良くなれるんだ」と恥ずかしそうに笑った。

 

形はどうあれ、どちらも愛だなぁ…と思う。

変わるというのは、相手に一番伝わる愛情表現だ。

女たちはひっそりと、誰かに変えられることを望んでいるのかもしれない。

 

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何でもないはずの一日

職場の人が急に亡くなった。

 

私がそれを聞いたのは、昼休みの事だった。

今朝、家で倒れてそのまま…くも膜下出血だったみたい。と言われて、最初に出た言葉は「え?誰が?」だった。

忌引きの話かと思って聞いていたので、不意打ちで全く頭に入ってこなかった。

 

亡くなった人はわたしと違う課の男性で、あまり接点はないものの会話をした事はあった。48歳だったらしい。

 

きのうまで普通に仕事をしていた彼の席はポツンと空いていて、それがものすごく怖くて寂しかった。

彼と同じ課の人たちは、普通に働いているように見えた。でも朝一番に知らせを聞いていたようだから、心を落ち着けた後だったのかもしれない。

 

全体に発表されたのは夕方の事で、わたしの上司も「まさか皆にこんな知らせをする日が来るとは…」とうなだれていた。

みんな突然の事で理解するまでに時間がかかり、なにも反応できなかった。とにかく悲しいよりも衝撃が先にきた。

 

でも後輩の男の子が、しばらくして泣き出した。その子は、入社したばかりのとき彼に仕事を教わっていたらしい。うそだろ…と頭を抱えて涙をボロボロと流した。

 

すぐに受け入れられなくて、こんな状況でも取り乱さないよう、なんとなく取り繕ってしまう大人たち。そんな中で、その子だけが事実をきちんと受け止めて悲しんでいた。

 

その姿は、彼が本当にいなくなってしまったことを現実にして、だんだん周りにも悲しみが広がるのが分かった。

その子が素直に泣いてくれたことに私は感謝した。

悲しいときは、悲しむべきだと思った。

 

毎日、何でもない一日だったらいいのに。

そう思わずにいられない日だった。

 

無い物ねだりだよ人生は

先日友人が、生まれ変わったら私のような人生を送ってみたいと言っていた。

 

わたしは32歳にして独身。

対照的に、早くに結婚して子供が何人かいる友人には、そう思われる事が多い。

 

素直に「楽しそうでいいなー」と言う人もいれば、言わないけれど「あなたは自由でいいわよね」というネガティブな雰囲気が伝わってくる事もある。

 

昔、すごく明るくて優しい子にもらった手紙に「ずっと羨ましかった」と書かれた事があり、なんとなく傷ついた。

そういう時、私とあなたは違うと突き放されたようで、何とも言えない寂しさ、孤独を感じてしまう。

お互い選んできたものが違うけど、選んだのは自分自身じゃないのかな。

 

冒頭の友人が言ったように、生まれ変わるしか、お互いの立場を経験することができない。色んなパターンの人生を生きれたら楽しいのに。

 

彼女たちは「自分の人生はもう決まっている」と言う。

でも、わたしにどの程度の「予想もつかない未来」が残されているのだろう、と思う。

一人でいたって、自由や出会いには限りがある。

 

ちがう環境にいる女同士が語り合うというのは、想像以上に難しい。

そこに、自分が経験することのない世界があり、嫉妬や失望が生まれるから。

 

自分の仕事を持つ私。

自由な時間があり、何にも縛られない。

新しい出会いがあり、まだ予想できない未来がある。

 

でも彼女たちには家族という守るべきものがあり、居場所があり、子供たちの未来を見守る楽しみがある。

他には変えられない尊い経験をしている。

 

いろんな人がいて、それぞれの立場で思い悩み、正解は無いし満たされることもない。

分かってはいても無い物ねだりは消えない。

 

けれども彼女たちとの交流はこれからも続いていく。

環境は違っても、大切な人だから。

自分が選ばなかった人生を誰かが生きて、それを見守っていくのだって、きっと楽しいだろう。

 

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集中力が続かないウーマン

最近、「ひとつの事しかしない」ように心掛けている。

 

今までの平日の私はこうだ。

 

朝、テレビを見ながらゴハン。支度をして、音楽を聴きつつ、スマホをいじりながら移動すると、いつの間にか会社に着いている。

 

昼、ゴハンを食べて、SNSをチェックしつつ読書すると、あっという間に休憩時間が終わる。

 

夜、会社を出て、スマホをいじりつつ電車に乗り、音楽を聴いたままスーパーに寄って家路につく。

その後もスマホを片手にテレビや映画を観て、風呂でもスマホを眺めて、ストレッチして寝る。

 

もう、いろんなものが同時進行で、集中力がとっ散らかっているなぁ…と自分で呆れる。

情報が波のように押し寄せて、何かを得ているようで何も残っていない。

そして脳がいつもグッタリ疲れている。

そもそも、そんな量の情報がわたしに必要なんだろうか?

 

カフェでゆっくり本を読もうとしても、夕飯のレシピをスマホで調べたくなり、そのままSNSを眺めて…とまったく集中できない自分がいる。おかしいな、いつからこうなったんだろう。

 

歩くときは歩くだけ。そうすると季節の変化を感じられる。

食べるときは食べるだけ。そうすると味がよく分かるし満足感がある。

 

そういう喜びを逃しつづけて生きていく人生って、すごくもったいない。

 

だからココできちんとリセットして、きちんとひとつの事に集中できる自分を取り戻したいのだ。

休め、そして五感を研ぎ澄ませろ、脳みそ。

 

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食べても 食べても

先週、叔母の家に遊びにいった。両親と兄と4人で。

 

母の姉にあたる叔母は、働くのが好きでとにかくよく動く人だ。外で働くのが苦手で、家族がいちばん大事!という母とは真逆の性格で、ゆえにあまり合わない二人だけど結局は仲がいい。

 

叔母は旦那さんとは死別しており、ひとり息子も結婚して出ていった。一緒に暮らしていた母親(私の祖母)は高齢で老人ホームにいるので、今はほんとうの一人暮らしだ。

 

叔母の家は、遊びに行くたびに何かがリフォームされている。トイレから始まり、台所、風呂、そして今回は玄関が変わっていた。母は、またおばあちゃんのお金を使って…と呆れているけど、ずっとお世話をしてくれているから文句は言えないだろうとも思う。

 

そんな感じですっかり叔母仕様にカスタマイズされた平屋は、田舎ゆえに広々してとても居心地がいい。さらに叔母はセンスが良く、すっきりと品の良い空間になっているので私はこの家が好きだ。

 

ひとつ困るのが、ご飯を大量に作ってもてなしてくれること。料理が上手だし、大変にありがたい事なんだけど、いつもお腹を壊す。

 

今回もこちらは4人なのに、魚屋に頼んだ刺身の盛り合わせが2皿、鳥と大根の煮物がどっさり、牛しゃぶサラダがこんもり、たけのこの炊き込みご飯、そして白米、まるごと玉ねぎのスープがひとり1玉、煮卵が6個分、鯖の竜田揚げがわんさか、どんぶり一杯の漬物、そしてテーブルの隅にあんころ餅が控えていた。

 

少し圧の強い叔母なので、みんな褒めながら食べ、食べながら褒め、を繰り返す。

美味しいけど途中から詰め込むカタチになって、なんだか千と千尋で豚になった両親を思い出す。ここまま豚小屋に入れられるかもしれない。

 

精一杯食べて、あーさすがにお腹いっぱいだなぁ…と言いながら様子を伺うと、じゃがりことコーヒーが置かれ、イチゴにアイスを乗せたデザートが出てきた。

 

もはやご馳走という名の拷問である。

食べきれなかった分はお土産に、と一人暮らしなのに6パック分のおかずを持たされ、私は今夜もその残りを食べた。

 

そんな事になるので行く回数も減り、私は2年に一度くらいのペースで訪れている。

次回も、またどこかがリフォームされているかもしれない。

 

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※画像に入りきれていない食べ物があります

 

明るい話をしよう

ブログを書くとき、いつのまにか愚痴ばかりになっている事があって、この言葉が私自身か…と思うと怖くなって削除する。

 

昔の私は、自分の愚痴をネタにして面白おかしく話したり、誰かをいじって笑わせる事が多かった。誰も傷つける気はないし、笑いでその場は明るくなるし、ポジティブなコミュニケーション方法だと思っていた。

 

でも実は違うんじゃないかと思う。何故なら人を笑わせても、その根っこはネガティブな要素だからだ。ただ笑えるだけで、あまり気持ちよくない。もし自分がお笑い芸人だとしたら、そんなネタでしか笑いを取れないなんて失格だと思った。

 

愚痴は面白くしてもただの愚痴であり、人にいじられるというのは本来あまり心地よく無い。

 

今は気をつけているが、それでも失敗することがある。

先日、彼とテレビを観ていたら「子供の卒業式に着ていく服が分からない」という主婦の相談コーナーがあった。それを観て「この人あんまり服のセンスないねーあはは」と笑った私。

その時は何もなかったが、数日後に彼から「ああいう人を見下すような笑いはよくないよ」と指摘されてしまった。

その時、育ちの良い彼との差を感じて、穴に入りたいような気持ちになった。

聞いている人を不快にさせるような笑いはダメだ、と改めて自分を戒めたのだ。

 

語る言葉が人をつくる。

ポジティブな言葉はいい影響を与える。

健康的で、心から楽しく、明るい話をしよう。

世の中にいい人は沢山いる

というのは昨年、彼氏と上手くいかないと弱音を吐いた私に、歳上の友人が言ってくれた言葉だ。

 

「今うまくいかない人、これまで別れた人たちとは単純に縁がなかっただけ。

どちらかに責任があるわけでもない。

世の中にいい人は沢山いるんだから、いつか必ず出会えるよ。」

 

と力強く言い切った。

恋愛が上手くいかない時、なんとなく自分に原因を探していた私は、その言葉に目が覚めた。

そうか、世の中の仕組みはそんなにシンプルなのか…と。

 

縁が無かったのならば仕方ない。ハイそれまでよ、と私の覚悟は決まった。

当時付き合っていた仕事漬けの彼とはあっさり別れて、その後に出会った人と良い関係が築けている。

マメに連絡をくれ、礼儀正しく誠実で、週末はいつも一緒に過ごす相手だ。

 

自分が求めるものを、相手も求めていた…

そんなマッチングが世の中にはあるらしい。

悩みの多い関係はその時点で違っているし、大抵のことはタイミングが全て、なのである。

 

恋に泣く者たちよ、絶望するなかれ。

いい人は沢山いるから。